木村一也(きむらかずや)さん
「10種類の名刺を持ちたい」と話す木村一也さんは、自身の会社「マナライブ」経営やNPOまなびのたねネットワーク理事、起業家支援からシェアハウス企画まで幅広い活動を行う、パラレルな人。
その原動力と覚悟とは?
好きなことを「とりあえずやる」
小学校時代から最先端のゲーム機に興味があった木村さんは、現在子どものプログラミング教室や小中学校でGIGAスクールサポーターをしています。
中学生の時にはゲームが作れるパソコンを新聞配達のお金やお年玉で購入し、ゲームをプレイしながら「俺ならこうするのに」とすでに作り手の視点で見ていたといいます。
高校ではマイコン同好会に入りPCだらけの部室でITベンチャー企業を目指す同級生と過ごし、電子科を目指すもその世界に没頭できず浪人。
自分が何をしたいのか内省した結果、ゲームのキャラクターやロボット・乗り物のデザインに行き着き、工業デザインを学ぶため東北工業大学でアイデアスケッチやデザイン思考を教わります。
年間350日も学校に通い、実習が終わらず学校に泊まってはデザイン模型作りで徹夜する日々を送り、卒業後就職した医療機器メーカーでも研究開発部で試作品作りに明け暮れる日々。
プロトタイプを製品化し量産するまでの流れを組むため、今度はソフトウェア部門でプログラミングを学び始めるなど、好きなことをベースにさまざまな知識や技能を身に付けていったそうです。
想像だけではなく実際に「とりあえずやる」感覚が身についたことが、今にもつながっていると言います。
「自分がこの土地を守らなければ」からの解放
プログラミングやICT教育など最先端を扱う木村さんの故郷は、亘理町鳥の海地区。
海が見える家で波の音を聴きながら育ち、祖父は漁師、父はマグロの遠洋漁業などをしていたため、学校から帰るとたらいが魚でいっぱいになっていた思い出があるそうです。
木村家7代目の長男として育った木村さんは、お互いの家族構成も把握しているほど近所付き合いが盛んな漁師町で育ち、就職後も東京転勤の話が出ると「宮城に残らなければ」という想いから仙台本社の会社に転職。
外に出たい欲求とは裏腹に、お墓をまもる感覚にも近い「自分の土地を守らなければいけない」という想いが自分の行動を縛っていたといいます。
そして2011年3月11日、東日本大震災発生。その日は出張中で、東京に住んでいた妹の家で津波の映像をTVで見ていたそうです。
6日後に地元に戻ると、15mの津波の被害を受けた亘理町では家が土台ごとなくなった風景が広がり「爆弾が落ちたみたい」だったといいます。
子供が小学生になるタイミングで亘理町の実家に帰ろうと、二世帯で住む家を建てたばかりの出来事でした。
家はたまたま残ったものの解体を余儀なくされ、近所の幼なじみも皆引っ越してしまいました。
あまりにも変わってしまった故郷の光景は現実感がなく「東北は終わった」と家族を連れて東京に引っ越すことも考えたそうです。
家や土地に縛られていた人生のブレイクスルーの瞬間でした。
「後悔がない生き方にしよう」と起業
震災時に働いていた仙台メディアテークは7階の壁が全部落ちる被害を受け、仕事もなくなったため声をかけてもらった前職の医療機器メーカーに製造責任者として復職。
無理やり生産計画を立てたことで、休日出勤や残業が増えてしまい、会社を良くするためマーケティングを勉強したいとグロービス経営大学院のMBAプログラムに参加しました。
そこで出会った熱量ある人たちに自分自身の志を問われた時に「自分で会社をやりたい」という起業願望を抑えていた自分に気づいたそうです。
起業するきっかけになったのは、息子さんの発達障害。
仕事ばかりで関われていなかった自分のせいかも、とたくさんの本やサイトから情報を収集し、発達障害は単にその子の特性だとわかった時に心の整理ができたと言います。
自分ごとの社会課題を発見し「同じように悩みを抱えている人がいるかも」と感じると、早速事業のブラッシュアップのため女川町の創業本気プログラムに参加。
障害児向けデイサービスの事業プランを12月に作ると、1月には登記、2月には株式会社マナライブを設立しました。
事業の滑り出しは資金調達から順調で迷いも不安もなく、計画の上では3年後には何億も儲かっている予定でした。
しかし現実には売り上げが立たず、毎月100万円ずつ減っていく日々。
数字を直視しないようにして心を保ったという驚きの話もありました。
さらに、事業を初めて丸一年経った4月の法改正でデイサービス業務の報酬15%減が決定。
新たな借り上げの原資もなく手の打ちようがなくなり、5月には従業員の解雇と清算。
止める時も即決断でした。
ある日突然、人知を超えた災害がまた起きるかもしれない。
震災時、変わり果てた故郷の光景を自分の目で見た時にブレーキが外れ「後悔がない生き方にしよう」と思ったことが、その後の人生に影響を与えています。
富谷を拠点にどこへでも
2013年3月に「海は見たくない」という両親の声もあり、地盤が固く安心でき、近所に親戚が集結していた富谷に家を建て移住しました。
立ち上げた会社の借金も残っておりどうしようかと思っていた時に、第一回の富谷塾に参加。
「普通では面白くない」と、アイデアプレゼンでは市長に「コスプレでプログラミング教室やります」と発表しました。
それまで経営や起業についての知識はありましたが、学べば学ぶほど石橋を叩いて渡る人が増え、MBAに通っても実際には起業しない人も多いと知っていた中で、富谷塾の「とりあえず夜市やマルシェをやってみた」スタイルに自身の「とりあえずやる」精神がマッチし、新しく何かを始めるにはいい場所だと感じたそうです。
TOMI+コンシェルジュの仕事も経験し、プレイヤー、起業家、支援者とさまざまな立場から富谷で起業を目指す人に関わっています。
現在は富谷市外でのICT支援事業もスタートし、気仙沼などを中心に富谷で出会った人々と共に活動中。
学校と関わりたい、学校の中でサポートしたい、地域と学校をつなぎたい、自分の子ども世代が暮らしやすい環境になってほしいなど、興味関心がある人は声をかけてほしいそうです。
基地は富谷に置きながら「せっかく呪縛がなくなったからには日本でも海外でもどこに行ってもいい」と語り、今後は富谷の人が他の地域でも活躍できるようなお手伝いをしたいといいます。
自身の起業を振り返り、「転機になるようなタイミングは定期的に訪れるが、それを掴むかどうかはその人の事前の準備が必要」と強いメッセージをもらいました。
「とりあえずやる」を実行する軽やかなイメージの裏側には、自身の決意や志の醸成があります。
「躊躇わず行きたいところに行こう」と新たな世界に飛び込み続ける木村さんのマインドに触れ、新たな一歩を「とりあえず」踏み出して見てはいかがでしょうか。
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この記事は「風と土の交差点プロジェクト」の一環で、風の人と土の人の関わりしろを創ることを目的としています。毎日1人ずつ、富谷塾生を中心とした富谷のひとの情報を発信していきます。